最近、「発達障害」という言葉をよく耳にするようになりました。
ASD(自閉スペクトラム症)やADHD(注意欠如・多動症)など、名前のついた脳の特性は、以前よりも社会的に知られるようになり、支援の仕組みも整ってきています。
でも一方で、私は時々、こんなふうにも思うのです。
昔から、人の脳にはムラがあったんじゃないか?
それを「障害」と呼ぶようになったのは、社会の側が変わったからじゃないか?
今回はそんな考えから、「発達障害は本当に“障害”なのか?」というテーマで、私なりの視点をまとめてみたいと思います。
昔の社会では“ムラ”も個性だった
私たちが暮らす現代の社会と違って、昔はもっと「得意なことを活かして生きる」ことができたと思います。
たとえば農業社会では、季節ごとの決まった作業を淡々とこなすことが重要でした。職人の世界でも、繰り返しの作業に集中できる力や、細かいこだわりが必要とされていました。
そこには今のような「空気を読む力」や「人とうまくやるスキル」は、そこまで強く求められていませんでした。
だからこそ、多少不器用でも「変わってるね」で済まされていたのかもしれません。
「脳のムラ=個性」として受け入れられやすい社会だった、そんな気がします。
現代の社会は「マルチスキル」が当たり前
ところが現代は、第三産業──つまりサービス業や情報産業が主流になり、働くうえで求められる力も大きく変わりました。
たとえば:
お客様や同僚との柔らかいコミュニケーション 空気を読む力 曖昧な指示をくみ取る力 マルチタスクや臨機応変な対応
こうしたスキルは、どれも目に見えないやりとりや、文脈の理解力が求められます。
こういった場面が増えるほど、特定の脳の特性を持つ人──たとえば注意が散りやすかったり、相手の気持ちを読み取りにくかったりする人たちにとっては、「うまくいかない」「生きづらい」と感じる瞬間が増えてしまうのです。
つまり、社会のあり方が変わったことで、「脳のムラ」が“困りごと”として目立つようになった、という見方もできるのではないでしょうか。
発達障害は「社会との相性」である
私は、発達障害を“本人の能力の問題”として片づけてしまうのは、ちょっと違うと思っています。
たとえば、マルチタスクが苦手でも、ひとつのことに深く集中できる。
あるいは雑談が苦手でも、論理的に考える力に長けている。
そんなふうに、「できないこと」と「できること」は、表裏一体であることが多いです。
でも今の社会では、苦手な部分ばかりが目立ちやすく、それが「障害」とされてしまう。
だから私は、「発達障害」とは本人が持っている“特性”そのものではなく、
「その特性が、社会の仕組みと合っていない状態」
を指しているのではないか、と思うのです。
これから必要なのは「多様性を許す社会」
社会が均一であるほど、「その型に合わない人」は苦しみます。
発達障害に限らず、生きづらさを感じている人は、「できないこと」を責められることが多い。
でも実際には、環境や評価の仕組みが違えば、「その人の特性」は武器にもなりうるのです。
これからの社会に必要なのは、きっと、
多様な働き方が選べること 「みんなと同じ」であることを強制しないこと 得意を伸ばし、苦手を責めない文化
そんな「ゆるやかに個性を受け入れる空気」なのだと思います。
おわりに:レッテルではなく、気づきのきっかけとして
発達障害という言葉は、ときに人を縛る“足枷”にもなります。
でも、うまく使えば「困りごとの背景を知る手がかり」として、本人や周囲に気づきを与える道具にもなります。
「障害」として排除するのではなく、「違い」として受け入れる。
そういう視点が広がれば、もっと多くの人が、自分らしく生きられる社会になるのではないかと、私は思っています。
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